2014年01月07日
ロシア兵に暗殺された伊藤博文 外交上の理由で安重根の単独犯行に
安重根 といえば South Korea 南朝鮮では烈士にして英雄
自己犠牲ものかわにっくき日帝の初代統監伊藤博文を射殺した とされていたが
このたび 石像から銅像にgrade up されるみたいで・・
実際にはSouth Koreaにとって
安重根は伊藤を暗殺して日韓併合を加速させた愚かなテロリストだった
との醒めた評価も漏れ聞こえてくる
だがいちばんわたしが驚いたのは・・
真犯人はほかにいた ということ
ロシア兵狙撃の根拠
@ 伊藤の体内に残っていた二発の銃弾はフランス騎兵銃のもの(もう一発は肉をそいで対外に出ている)安重根は7連発ブローニング拳銃で 銃弾がちがう
A 安重は伊藤とは水平方向の駅のホーム上にいたが 銃弾は駅の二階の食堂から撃ち降ろしたもの
伊藤の右肩を砕いて右乳下に止まった銃弾と右腕関節を貫通して臍下(へそした)に止まった
銃弾は 高所から真下に撃ち降ろさないと不可能な銃創
B 日英同盟が結ばれ、日露開戦が予想より早くなり、そのためロシアは敗北した
ロシアは対ロシア謀略の中心人物が伊藤博文であると判断しており、裏切り者として復讐した
なんでもウリジンは南朝鮮 を旗印にする お国柄
握り寿司も朝鮮半島が源流だそうで
伊藤博文 を殺害したのもロシア兵でなくて 朝鮮人 のほうが
朝鮮や日本 ロシアにとっても好都合だった ということなのだろう
日本の外交文書や 伊藤博文の遺体検案書にも 銃弾の軌跡や銃弾の種類について何も触れられていない
(以下引用)
【伊藤博文暗殺の真相は? 載安重根の弾は命中しなかった】http://mshks1318.iza.ne.jp/blog/entry/3169137/
日露戦争終了直後の明治38年(1905年)11月17日、日本と大韓帝国の保護条約の方針が発表されると、韓国統監府が設置されることになり、伊藤博文が初代統監に就任しました。
この頃、韓国の民衆パワーは公称100万人の一進会に結集されており、「李朝政府の外交権を日本に委任せよ」と大規模なデモが行われていました。伊藤が赴任してきた日にはソウルの南大門に「歓迎」の巨大な幕が張り出されました。
伊藤は4年後の明治42年(1909年)10月、ロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家安重根によって狙撃され、死亡しました。現在、韓国では安重根は英雄となっています。
元九州大学大学院客員教授の若狭和朋氏は伊藤博文暗殺の犯人は安重根ではないと指摘しています。
氏によると伊藤博文には三発の銃弾が命中し、体内に残っていた二発の銃弾はフランス騎兵銃のものです。(もう一発は肉をそいで対外に出ている)安重根は7連発ブローニング拳銃です。まず、銃弾が異なります。伊藤に同行した貴族院室田義文も5発被弾し、犯人は安重根ではないと書き記しています。その内容の一部。
「駅の二階の食堂からフランス騎兵銃で撃った者がある。・・・右肩から斜め下に撃つにはいかなる方法によるも二階を除いて不可能である。そこは格子になっていて斜め下に狙うには絶好であった」
室田義文は伊藤公の遺体の処置に立会い、右肩を砕いて右乳下に止まった一弾と右腕関節を貫通して臍下(せいか/へそした)に止まった一弾を現任しています。ところが不思議なことに、検事の調書には室田が「騎馬銃」について述べた記録はなく、安重根を裁いたこうはん記録のどこにも「騎馬銃」の文字は出てこないし、遺体の処置に当たった医師の談話にも「騎馬銃」は出てこない・・・
若狭氏はここで外務省外交資料館の「伊藤公爵満州視察一件」というファイルに以下の記載があるのを指摘しています。
「・・・真の凶行担当者は、安重根の成功とともに逃亡したるものならんか。今、ウラジオ方面の消息に通じたる者の言うところに照らし凶行首謀者および凶行の任に当たりたる疑いあるものを挙げれば左の数人なるべきか」として25人の名前を記しており、安重根の名前もこの中にありますが、この25人は「韓民会」というロシア特務機関の影響下にある組織でした。
つまり、安重根を犯人にしたてあげて外交的にも内政的にも幕引きにしたということです。ロシア特務機関がなぜ伊藤を狙ったかは若狭氏の記述は長いので簡単にいうと、日露戦争前に伊藤はロシアと協商を結ぼうとしていたものの、その後、日英同盟が結ばれ、日露開戦が予想より早くなり、そのためロシアは敗北した。対ロシア謀略の中心人物が伊藤であると判断しており、裏切り者として復讐したというものです。
よく言われているのは伊藤博文は日韓合邦慎重派で、日韓合邦に反対する安重根は伊藤を暗殺して日韓合邦を加速させたバカなテロリストだったというのがありますが、伊藤暗殺が日韓合邦の思惑の外であれば話はあってきます。少なくとも安重根の銃弾は伊藤には命中しなかったのは間違いないでしょう。彼はテロリストとしても成果は無く、韓国でいう義士としても成果は無かったわけです。
2013年12月16日
さようなら 堤清二
文筆家 経営者 どちらとしても大きな足跡を遺して2013年11月に旅立った、堤清二
彼のアイデンティティの原点は、自分は妾の子 という負い目だった
子供のころ 近所の子らに囃したてられいじめられた とのちに述懐している
「茜色の空」に描かれた、リベラル宰相の大平正芳
彼の官界、政界に置ける東京商大卒 という傍流からの天下取り
堤の、大平を見つめる眼差しは温かい
堤清二が日本共産党員だったのも与党政治家、大実業家だった父への反発 がきっかけだったのは間違いない
彼の真骨頂は、自身が家庭を持ち、男の生理や本音を理解してからである
本当は資本家などかなぐり捨てて、ずっと作家 辻井喬でいたかったのではないか
常に悩み、迷い、周りの人たちへの配慮を重ねた堤清二には経営者としての冷徹な判断、リストラは無理な相談だった
彼が全財産を差し出してセゾングループの清算を決めた背景には、優しさゆえの優柔不断さ、弱者=従業員 への思いやりが複雑に絡み合っていたのではないか
辻井喬 自著「遠い花火」は筆者の半自叙伝である
主人公の島内源三郎に主張させる、
「人間の値打は人間としての力量や魅力で決まるものであり、身分、階級、出身地、あるいは肩書できまるものではない』
は 堤清二 本人の魂の叫びだったろう
彼は迷いながら一生 成長をつづけた、数少ない希有な思想家だったのかもしれない
優柔不断な実業家と モラトリアムな作家
そこに育ちのよさと 深い教養により修飾される、繊細な仕事が読者の一部にとってはたまらない魅力だったのではないか
破綻した堤義明を追い落とさなかったのも彼の教養のおかげである
彼はすべて無に帰する瞬間を ある意味待ち望んでいたのではないか
生に執着しないところもまた 堤らしい生き方だったと考える
彼が実母 岩崎ソノにやっと巡り合えたのは晩年になってのことだった
醸し出されるアンニュイで屈折した清二の世相観はもう誰も聴くことはできない
2013年08月28日
〈書評をコメント〉「折口信夫の青春」 折口が同性愛者だったことに衝撃
折口 といえば大多数の識者が想うことは 民俗学の先達 柳田國男の一番弟子 というもの
だが 「折口信夫の青春」(富岡多恵子 安藤礼二 共著)によれば 彼はホモセクシャルであったという
さらに同書では同性愛者であることが彼の人生と著作活動に及ぼした影響を彼の著作を手がかりに掘り下げてゆく
現代とは比較にならないほど、閉鎖的保守的だった明治〜昭和初期
この時代に ホモセクシャル ということを隠さず、要職に就き、旺盛な著作活動をするためには よほど自分に自信があり周囲の彼への評価が高かったのだろう
あるいは 『大鏡』に描写されるほど太古の時代からの、仏門における稚児の存在など、もともと日本の文化には同性愛への寛容の精神に満ち溢れていた というべきなのか
とにかく わたしは 折口信夫が同性愛者だったことに衝撃を受けた
そんなことを言うこと自体が 折口に対して失礼というものだろうが・・
赤坂真理氏の「折口信夫の青春」への書評
『閉塞感や疎外感に苦しむ、すべての人に。私は、折口信夫がこの国に生きていたという事実、それだけで、励まされる』
これは彼女自身が折口の著作で励まされ、心の支えになっていたことの証 といってもよいだろう
赤坂氏の書評に目を通すだけで半分「折口信夫の青春」を読了した気になるから不思議だ
(以下引用)
赤坂真理氏の「折口信夫の青春」への書評
朝日新聞2013.8.25
(書評)『折口信夫の青春』 富岡多惠子・安藤礼二〈著〉
◇対談で描き得た人物像の新地平
折口信夫は、長らく私の気になる人だった。今や私のアイドルと言っていいが、彼自身の著書は、ぐっとくると直観はしても、とっつきにくい。しかし、折口に共振した人が紡ぐ言葉には、読んで心をわしづかみにされるものがあり、私が折口に近づいたのも、本書の対談者、安藤礼二や富岡多惠子の著作を通してだった。
折口信夫には、謎が多い。柳田國男の弟子というのが広く知られた顔だ。しかし、柳田に出逢(であ)う前に、折口の世界はすでに豊穣(ほうじょう)だったのであり、言語学、宗教学、のみならず短歌、小説など、これだけ多くの領域で一流の著作をなした人は、そうはいない。本書では、主に柳田以前、折口という「人」が形成される幼年期から青春期を、著作等を手がかりに追っている。
折口は同性愛者だった。その点も、二人は追う。暴露趣味ではなく、ごく自然に、人と人が出会い惹(ひ)かれ合い別れた記録として。すべての人間関係は恋愛に似る。そしておよそ「個」などというきらめきは、他者との圧倒的なかかわりの中からしか出てこない。
私が、他の折口論にいまひとつ興味を持てなかったのは、ほとんどの論者が、折口のセクシュアリティを、あたかもないかのように扱い、結果、どこかが薄かったからだ。富岡や安藤は、それほどに大きなファクターが、人生と表現に影響を与えないほうがおかしいと考える。折口は、同性愛者であることを隠さず、要職に就き、愛する者たちと共同生活を営み、磁力を放つ著作をなし続けた。家父長制の強かった時代において、想像を絶する勇気である。無視するほうが失礼ではないか。
驚くべきことに、この種の人材は、今日の日本社会においてさえほとんどお目にかかれない。異性装タレントには驚くほど寛容な一方、喧伝(けんでん)される幸せのかたちは、「男女が結婚して子供をつくり育てる家庭」ばかりであり、それ以外の物語はほとんど話題にもされない。それは多数派だろうが、そのかたちばかりが強調されて多様性がなく息苦しさを覚えることも、少子化の大きな原因ではないだろうか?
読めば読むほど引き込まれる本である。謎がさらに大きな謎を呼ぶミステリーのようであるし、明治から昭和という激動の時代と一人の人間のドキュメンタリーとしても、人間の孤独や愛を普遍的に描いた文学作品としても読める。資質も性別も世代もちがう二人の論者が、補完しあうようにピースをはめ、そうでなければ完成しない像があったと思わされる。
閉塞(へいそく)感や疎外感に苦しむ、すべての人に。私は、折口信夫がこの国に生きていたという事実、それだけで、励まされる。