2013年11月08日
細木数子に監禁され 稼ぎをすべて略奪、搾取された島倉千代子の死
島倉千代子 といえば 44年前、眼科医との結婚で全国の医師を驚かせたようだ
彼女が 芸能人と医師との結婚のはしり
のちに 堀ちえみ 鈴木安寿 泉ピン子 最近では 中野美奈子アナなどがあとに続く
細木数子は債権者に追われる島倉千代子を体よく監禁、その稼ぎをすべて 借金の返済 を名目にピンハネしていたのは有名な話だ
一説によれば 30年前の金額で 4億円以上の売上をピンハネしたという
(以下引用)
島倉千代子は70年頃、ステージ上でファンの投げたテープが眼に当たり、大けがをするという事故に見舞われている。一時は失明の危機にまで陥ったが、担当医の治療により無事回復。これが縁で島倉と担当医は深い仲になる。
彼はその後、さまざま事業で失敗して島倉に莫大な借金が残った。島倉のもとには、暴力団が取り立てにやってきて、劇場の楽屋で騒がれたり、車のボンネットの上に乗られたりと、嫌がらせを受ける毎日。
1977年そんな借金まみれの島倉の前に現れたのが、赤坂などで水商売を立ち上げていた細木だった。
細木によれば、77年に債権者に追われて島倉が泣きついたのが、暴力団「二率会」の4代目会長(当時相談役)で小金井一家の幹部だった堀尾昌志という人物の知人であったという。
この知人から相談を受けた堀尾は、自ら1億5000万を作って島倉の債権者に返済したと言う。(かつての細木の証言によれば、赤坂で自身がサパークラブを経営していたときに、偶然に島倉と出会ったという事になっている)
「その筋にも顔が利く」ということで、島倉はマネージメントのすべてを任せ、島倉の興行権を手に入れた堀尾は、芸能プロダクション「ミュージック・オフィス」を設立。細木数子が「光星龍」という名前で社長に就任する。
島倉は、毎月数百万円ずつ返済することになった。
後に細木は堀尾との関係を、「夫婦以上、親子以上」だと語っている。
細木は当時「光星龍」の名で作詞も手がけている。
昭和54年5月 「噂」、「女の私が得たものは」
昭和55年1月 「春秋の舞唄」、「千歳扇の舞」
昭和55年5月 「女がひとり」
昭和55年7月 「綱わたり」
ヒットはない。
島倉クラスのタレントなら、月に400〜500万円は稼げた時代。本来なら、これで懸命に働けば借金は完済できるはずだった。
しかしそうはならなかったのである。いつまで働いても、借金は完済できなかったのだ。
島倉は「もしや細木とその筋が示し合わせて、金を吸い取られているのではないか?」と疑念を抱き、島倉は所属レコード会社の「コロムビア」に借金を肩代わりしてもらうことで、細木と別れ1981年に別の事務所に移籍してしまう。
2005年3月5日号の『週刊現代』で、細木は次のように答えている。
「冗談じゃないわよ。(中略)借金を返し終わったとたん、お千代(島倉千代子)は出て行っちゃった。それっきり音沙汰もなし。助けてくれた堀尾のお墓には線香の一本もなし」
細木の当初の話では、「島倉が抱えていた負債は4億3000万円(当初は2億4000万といわれたが、実際は4億3000万円てあった)で、それを債権者側に三分の一の1億5000万で納得させた」、という話であった。
だがこの後、借金の額がコロコロ変わっていくのである。
まず1980年5月8日号の『週刊平凡』で細木は「16億円あった借金を、6億円にしてやった」と語っている。
それが1982年の『六星占術による運命の読み方』(ごま書房)では、「4億数千万の負債」
となり、
1988年に出版された『女の履歴書』(廣済堂)では「後に判明した金額は13億円で、それを三分の一の4億3000万円で債権者に納得させた」
となっている。
前出の『週刊現代』2005年3月5日号の取材に対しては「12億円だった負債を2億4000万で債権者に納得させた」と答えている。
ことあるごとに島倉千代子を再生させた手腕を喧伝する細木に対して、島倉が憤っていると言う話もある。
http://blog.livedoor.jp/tenchu13/archives/50009453.html
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